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2014年01月26日

新日本フィルハーモニー交響楽団第519回定期演奏会(1/24/2014)


新日本フィルハーモニー交響楽団第519回定期演奏会

1.交響曲第4番ハ短調「悲劇的」(シューベルト)
2.交響曲第4番変ホ長調「ロマンチック」(ブルックナー)

指揮:ヴォルフ=ディーター・ハウシルト

2014年1月24日
すみだトリフォニーホール

ハウシルトと言うと、真っ先に思い出すのが2002年3月の新日本フィルの定期公演である。
曲はブルックナーの交響曲第5番。2001年末に逝去した朝比奈隆の代役としての登場であった。
あの晩の神々しいまでのブルックナーの記憶は、俺の中でいまだに鮮烈なものとして残っているが、
そこには聴き手にも、そしてオケの側にも、朝比奈隆という強大な存在の記憶があってのことであり、
ハウシルトという指揮者の存在がどこまで「あの晩」の演奏に加担していたかは測りかねる。
実際に、それ以降の彼の客演を聴くと、やはり「あの晩」を超えることはできなかったからだ。

ハウシルトという指揮者の経歴を見てみると、彼がいかにドイツ本流の指揮者の道を歩んだかがわかる。
オペラハウスのピアニストという下積みから始まり、徐々に活動の場をオーケストラに広げていった人だ。
よって、彼の持ち味はドイツ伝統の音楽作りである。適正な和声感覚と、リズム処理に裏打ちされた正攻法。
まさにドイツ音楽を聴く喜びを教えてくれる、そんな今では貴重な存在と言える指揮者なのだ。
しかし同時に、ドイツ伝統の音楽作りゆえに、その好ましくない部分が彼の演奏からは聴こえるのも事実だ。
それは、その手堅さゆえ、演奏が箱庭的になり、目の前に鳴っている音に反比例するようスケールは小さく、
手堅いだけで終わってしまう。名匠ではあれ、巨匠とはなかなか言いづらい存在。それがハウシルトだった。

とはいえ、繰り返しになるが、ドイツ音楽の正攻法を聴かせる貴重な指揮者として、彼は貴重であり、
前年は病気で客演をキャンセルしていることもあり、今回の彼の客演は非常に楽しみなものであった。
今回はシューベルトとブルックナーの交響曲第4番。まさにドイツ人によるドイツ音楽のプログラム。
この演奏会には「まだここにある本物の響き」というサブタイトルが付いていたが、まさに言い得て妙だ。

さて、演奏会の感想へ話を移そう。

プログラム前半はシューベルトの交響曲第4番ハ短調「悲劇的」。
数年前の客演時よりもさらにゆったりとした足取りでハウシルトが登場し、にこやかに指揮台へ。
しばしの沈黙の後、ハ音のトゥッティを振り下ろす。重心が低く、揺るぎない響き、まさにドイツの響きだ。
それと同時に、弦の響きに若干の違和感を感じた。そう、弦楽器はノンヴィブラート奏法を採用していたのだ。
一部(特にチェロ)内声にヴィブラートをかけることがあったが、それでもノンヴィブラートと言っていいだろう。

一般的にオーケストラがノンヴィブラートで演奏される際、特徴的になるのが、その弦の強いアタックだ。
特にベートーヴェンやシューベルトのように、スフォルツァンドやアクセントが多用される場合においては、
弦がノンヴィブラートで、強いアタックで弾くことにより、その効果を生ませている手法が多く取られる。
よって、演奏は刺激的なものとなり、時代考証的、演奏的な面白味においては文句なしではあるが、
それを繰り返し聴いて、音楽的な示唆ととらえることは難しい。「面白い」止まりなのだ。

今回のハウシルトによる、ノンヴィブラートのシューベルトでは、そういったスフォルツァンドやアクセント、
音作りの面の縁取りは、ティンパニおよび金管が役割を担うことが多く、弦はあくまでも正攻法で鳴らされた。
弦楽器の音は刺激的になることはなく、ノンヴィブラートで奏でられるからこそ強まるその原味は格別だった。
俺はこれほど、ノンヴィブラート奏法で温かみのある弦の響きをこれまで聴いたことがない。
特に第2楽章における内声の響きの美しさは、ハウシルトが持つ和声感覚の素晴らしさと、
ノンヴィブラート奏法との美しき融合。これまでに経験したことのない美しい瞬間が聴かれた。

それ以外の楽章においても、オーセンティックな解釈の中にノンヴィブラート奏法が入り込むという、
これまでありそうでなかったような演奏が繰り広げられた。重心はあくまで低く、遅めのテンポでじっくり進む。
そこにノンヴィブラート奏法による透明度の高さが加わり、テクスチュアはスッキリと見通しのいいものとなり、
シューベルトが楽譜に書き残した、数々の仕掛けを過不足なく、かといってやりすぎることなく奏でていく。
言葉の表現が見当たらないが、「温故知新」のまさに逆を行ってしまうような演奏。
これこそが現代における正統派と呼ぶにふさわしいようなシューベルト演奏。
演奏しなれないノンヴィブラート、演奏しなれない楽曲のせいか、アンサンブルの乱れが多数聴かれたが、
これほどの快演を前にはさほど大きな問題ではない。

そして後半はブルックナーの第4番「ロマンチック」。なんとこちらもノンヴィブラートによる演奏だった。
ここでのハウシルトは、まさに大巨匠時代へ先祖返りしたような、大時代的な解釈による演奏であった。
原始霧からホルンが目一杯溜めて曲の始まりを告げる。ここまで遅い出だしも珍しい。
全体を通じて極めて遅めのテンポが採用され、アゴーギクの多用、金管の咆哮、まさに大巨匠時代のもの。
しかしその弦の響きはノンヴィブラート。正直はじめは違和感の塊であり、シューベルトが鮮烈だったゆえに、
ブルックナーは失敗だったのではないだろうか、という思いすらよぎってしまうような第1楽章であった。

今回のノンヴィブラートによる「ロマンチック」。ノンヴィブラートの効果が一番よく現れたのは第2楽章だろう。
ノンヴィブラートによる透明度と、それゆえに強まった内声楽器の原味の濃さが実に見事に融合していた。
ひょっとしたらブルックナーが求めていた響きはこれだったのかもしれないと思わせてくれるような、
いや、ブルックナーが求めていた響きすら超えていってしまったような音が聴こえていたかもしれない。
それほどに見事な第2楽章。第1楽章で感じていた違和感などはすっかりと消え去っていた。

続く第3楽章も、ハウシルトは緩急、ダイナミクスを大きく取り入れ、恣意的なまでに演奏を進めてゆく。
しかし、その響きの重心はあくまでも低く、的確な和声感覚とリズム処理に裏打ちされた伝統の響きは、
恣意的でありながら、ブルックナーの本流の響きを作り上げていく。まさしく本物のブルックナーだ。
こうなれば、ハウシルトの作り出すブルックナーに、ただひたすらに没頭すれば良い。

そして第4楽章。極めて遅いテンポが採用され、他楽章以上に個性的にして恣意的な演奏ではあったが、
もはやそういう言葉すら必要ない、巨大なるブルックナーの音にひたすらに圧倒されるだけであった。
ノンヴィブラートがどうしただの、オケの傷がどうしただの、そんなことを語ることすら無意味と思える、
目の前に圧倒的に鳴り響くブルックナー、ハウシルトによるブルックナーの音に身を委ねるだけだ。
極めて克明な演奏によるコーダから終結の和音に至った瞬間。美しい変ホの残響がホールを満たす。
いつまでもその輝かしい残響が消えないのではないだろうか?そんな錯覚すら感じさせられた。
これこそがブルックナーを聴く喜びである。

さて、今回のハウシルトによるブルックナー。果たして素晴らしいものであった。
ノンヴィブラートに依りながら、解釈自体はオーセンティックに、というこのスタイル。
繰り返しになるが、まさしく現代の正統派と呼ぶに相応しい。ニュースタンダードと言えるだろう。
そしてこれほどの演奏を成し遂げたハウシルト。もはや彼は名匠ではない、巨匠である。

はじめにも書いたが、2002年3月の朝比奈隆の代役で登場したこのハウシルトという指揮者。
やはり「あの晩」の神々しいまでのブルックナーは鮮烈な記憶であり、あれを超える物もそうは無い。
しかしながら、ドイツ伝統の名匠から、まさしく真の巨匠へと進化を遂げた彼のこの日のブルックナーは、
「あの晩」と比べるような野暮なことは不要な、彼にしか成し得ない素晴らしいものであった。
これからのますますのハウシルトの活躍に期待したいところである。

2014年1月26日 マサゴロウ

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2013年11月29日

名曲名盤100選(その5:ベートーヴェンの交響曲)

交響曲第5番ハ短調 作品67

指揮:ヨーゼフ・カイルベルト
ハンブルク国立管弦楽団(1960年代前半)

ベートーヴェン:交響曲第5番《運命》&第6番《田園》
カイルベルト(ヨーゼフ)
Warner Music Japan =music=
2008-09-24


「ジャジャジャジャーン」。運命である。
ベートーヴェンのというよりも、クラシック音楽の中で最も有名な曲の1曲だろう。
この「ジャジャジャジャーン」を、運命が扉を叩く音だとベートーヴェン本人が言ったか言わずか、
日本では「運命」なんて表題が付くが、海外ではこのような表題はつかないのはご存じの通り。
確かにこの「ジャジャジャジャーン」のリズム動機が、この曲全体を構成しているということを考えれば、
この「ジャジャジャジャーン」が、この曲を運命づけたわけで、確かにこの曲は「運命」であると言える。

この曲全編を支配する「ジャジャジャジャーン」のリズム動機。
ひとつのリズム動機で曲を構成していくという手法は、ベートーヴェンにはよくある手法であり、
交響曲であれば第1番の段階で、すでにその基礎は出来上がっている。
そしてその作曲手法が見事な形で体現されたのがこの第5番なのである。
ベートーヴェンの作曲技法の、ひとつの集大成。好き嫌いは別として傑作と呼ぶにふさわしいだろう。

これほどの傑作を前にすれば、どういった演奏であってもそれなりの感動を得ることができる。
たとえば、俺はカラヤンのベートーヴェンなんて、と毛嫌いしているわけだが、
この第5番に関しては、1940年代にウィーンフィルと録音したものを愛聴していたりしている。
つまり、曲がここまでしっかりと作られていれば、演奏は問わないと言っても過言ではないのだ。
ファーストチョイスには何が良いか?と尋ねらたらば、音質が悪くなければなんでも、と答えるだろう。
ただし、個人的には「苦悩から歓喜へ」というドラマ性を無理やり持たせたような演奏は好まない。
そういう演奏は得てして音質は悪い、こう書けば誰の演奏かはお察しいただけるだろう。

今回俺が取り上げたいのはカイルベルトの指揮によるスタジオ録音だ。
カイルベルトと言えば、カラヤンと同い年でありながらも、60歳の若さにして亡くなった指揮者である。
カラヤンのようなスター街道は行かず、歌劇場叩き上げの、まさにカペルマイスターと言うべき存在だ。
彼の演奏はまさしく「ドイツ的」である。一点も揺るがすことのない重厚な響き。遅めのインテンポ。
ドイツ人による、ドイツ音楽を聴く楽しみが彼の指揮による演奏からは聴くことができる。

となれば、俺が最も好むタイプの指揮者がカイルベルトその人であり、実際にそうなのであるが、
彼の演奏はドイツ的な演奏の、いい部分とは反面として好ましくない部分もふんだんに持ち合わせている。
その一つの特徴として、演奏が箱庭的というか、四角四面になりすぎる嫌いがあるということだ。
特にカイルベルトの場合は、フレーズをザクザクと切っていくような演奏が特徴の一つであるが、
それ故に性急さが表面的になることも多く、たとえば同じベートーヴェンなら「田園」などは不出来だ。
彼がバイロイトで振ったワーグナーなどは極上の素晴らしさで、まさに職人仕事の結晶だとは思うが、
それでもよく聴けば、マタチッチなどと比較すれば、フレーズの息の長さは圧倒的に足りていない。
しかし、誤解して欲しくないのは、彼が効果を狙った短距離奏法的な演奏をしているというわけではなく、
スコアの見通しはスッキリと、構成を見通したものであるというのは強調したい。
そしてそれが劇場叩き上げの、カペルマイスターとしての職人気質なのだ。

となれば、このベートーヴェンの第5番のように、リズム動機を積み上げていくような作品においては、
カイルベルトの演奏スタイルは抜群の相性を発揮する。
愚直なまでに、そっけないほどにリズム動機を積み上げていき、圧倒的なクライマックスを作り上げる。

第1楽章の出だし。大きなタメと共にリズム動機が示された瞬間。その響きの虜となるだろう。
なんたる重厚にして血潮のたぎるような響きだろうか。洗練なんて言葉は微塵も存在しない。
ハンブルク国立管弦楽団のローカル色の強い、垢抜けない響きもそれを助長する。
原味あふれる弦の響き。野性味あふれる金管の咆哮。ズシりと影を与えるティンパニ。
どこをとってもカイルベルトの。ドイツ人によるドイツ音楽の素晴らしさにあふれている。
その反面、第2楽章の木管の幽玄にして静謐な響きも素晴らしい。

苦悩から歓喜へという、取ってつけたようなドラマはここには存在しない。あるのは目の前にある楽譜のみ。
ベートーヴェンが残した楽譜を信じ、真っ直ぐに演奏したベートーヴェンをここに聴くことができる。
演奏者はその音のドラマに埋没していくことはない。目の前の楽譜を信じていればそれは不要だ。
本当の音のドラマというのは、顔を真っ赤にして音楽とともに泣いたり笑ったりすることではないのだ。
もっと自然に、書かれていることをそのままに演奏すれば、自然と生まれてくるものなのだ。
そんな当たり前のようなことが、このカイルベルトの第5番からは聴こえる。

これほどの名曲であり。数多くの名盤がひしめくこのベートーヴェンの第5交響曲であるが、
その中でも、最も真っ直ぐな演奏のひとつがこのカイルベルト指揮による演奏であると俺は思う。
もちろんもっと他に美しい演奏もあるだろうし、ドラマチックな演奏もあるだろう。
しかし、俺はこのカイルベルト盤を、この曲の決定盤のひとつとして強力に推薦したい。

2013年11月29日 マサゴロウ


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2013年11月12日

新日本フィルハーモニー交響楽団第517回定期演奏会(11/8/2013)


新日本フィルハーモニー交響楽団第517回定期演奏会

1.交響曲第7番ホ短調 「夜の歌」(マーラー)

指揮:ダニエル・ハーディング

2013年11月8日
すみだトリフォニーホール


ダニエル・ハーディングといえば、今俺が最も注目し、敬愛している指揮者だ。
初めて聴いたのは2009年3月の新日本フィル定期公演でのこと。
「牧神の午後への前奏曲」、「ラ・ヴァルス」、「幻想交響曲」という俺の苦手なフランスプロ。
ステージ上に現れたのは、比較的小柄な、見るからにイギリス人といった風情の好青年。
その指揮ぶり、腕の使い方から、経歴を見るまでもなくアバドの弟子であることはわかったが、
その音楽性の素晴らしさに打ちのめされた。とにかく全身是音楽と言わんばかりであった。
楽譜に書かれた音のすべてが彼のものとなり、その音たちは彼のために奉仕をしているようですらあった。

俺が中学生、そして高校生の時、自分の進路を決めるにあたり、音楽家を目指すという道があった。
結果的に俺は普通の高校へ、そして普通の大学へと進学をし、音楽は趣味という形になったわけだが、
ハーディングを初めて聴いたあの夜、俺の選択は間違っていなかったと確信した。
俺がどんなに頑張って音楽を勉強したところで、彼の才能には決して敵わないと思ったからだ。
恥ずかしながら自惚れな俺のことだ、いまだに俺の中には音楽的な才能はあるとすら思っている。
それでも、ハーディングの才能を目前としたら、俺は絶対彼には敵わないと思っているのだ。

2009年のハーディングとの衝撃的な、あの幻想交響曲との出会いからというもの、
俺は新日本フィルに彼が登場するのを楽しみに、心待ちにするようになった。
もちろんマーラー・チェンバー・オーケストラをはじめ、他のオーケストラとも来日しているのだが、
やはり自分が愛し、幼少の頃より聴き続けているオーケストラを振りに来てくれるというのは格別である。
そして俺が聴いたどの演奏会も、印象深く、音楽的な刺激を与えてくれる素晴らしいものとなっている。

今回の定期公演で取り上げられたのは、マーラーの交響曲第7番ホ短調「夜の歌」。
ハーディングと新日本フィルのコンビによるマーラーの交響曲と言えば、あの2011年3月11日の5番、
2012年1月の9番、2012年5月の1番、2013年6月の6番「悲劇的」に引き続き、5回目である。
実際マーラーは、ハーディング自身も得意としている作曲家なのだろう。今までのところハズレ無しである。
個人的には、2012年1月の9番が、これまでの音楽体験の中でも5本の指に入る演奏になっている。

さて、今回の「夜の歌」であるが、この曲はマーラーの交響曲の中でも難解で謎が多い、とよく言われる。
第2、4楽章に「ナハトムジーク=夜の音楽」とタイトルが付けられのが、この曲名の由来ではあるが、
それでは第1、3、5楽章を、特にネアカでお祭り騒ぎの第5楽章をどう扱うか、という課題がある。
そもそもなぜ中間の2つの楽章に「夜の歌」と名付けたのか、というところからスタートさせねばならない。
また、全体を漂う、これまで以上にマーラー臭の強い、一歩間違えばキチガイともとれる曲作り。
巨大化したオーケストレーション、楽器書法の複雑さ…列挙に暇がない。
一昔前なら難曲と言われ、下手すれば演奏不能と言われかねないような曲である。

今回のハーディングの指揮によるこの曲の演奏。まさに快演と言うに相応しいものとなった。
冒頭のテノールホルン(チューバ)のあっけらかんとした大音量には少々面食らったが、
それ以降はハーディングの、楽譜の隅々までに目を光らせ、意思を宿した指揮により、
そして、その指揮に必死に食らいついてゆくオーケストラの健闘により、この難曲を見事に演奏した。

オーケストラの鳴りっぷりはいつものハーディング同様。力みがないのに弾力性がある、彼独特のもの。
各パートのバランスは丁寧に整えられ、難解な楽器書法はすっきりと見通しのいいものとなる。
マーラーならではの、並列的な、一見何の脈絡もないような各モチーフは、見事に有機的に処理され、
思いがけない内声の強調や強弱の取り方で、そのテクスチュアはより明確に浮き上がる。
しかし、不思議なことに、禁欲的と言えるほど色彩感は抑えられていた。

今回の演奏の白眉となったのは、「ナハトムジーク=夜の音楽」を含む中間の3つの楽章であった。
第3楽章を中心とした、シンメトリー構成となっている「夜の音楽」、どちらも抒情的で内省的だ。
今回特に見事だったのが第3、4楽章。第3楽章はハーディングの個性が最もよく表れた演奏。
ハーディングはとにかく3拍子のスケルツォに強い。これは天性以外の何物でもないだろう。
全く力むことなく、弾力性を与えながら前に進んでいく、完璧な推進力。
随所に効果的に与えられるスフォルツァンド。文句のつけようのないスケルツォだ。
艶を消したような原味あふれる弦にスカッと抜ける金管。これは彼にしか出せない音だ。

続く第4楽章。ギターにマンドリンが加わり、打って変わって「アモローゾ」、愛の音楽だ。
まさしく雰囲気満点。見事に第2楽章の「夜の音楽」と対をなす「夜の音楽」。
ともすればムード音楽に聴こえてしまう危険性を合わせ持ったこの楽章であるが、
こちらも色彩感を抑えられたオケの音色、特に艶消しを施したようなヴァイオリンの響きにより、
雰囲気を残しながら、極めて純音楽的な魅力を最大限に引き出した名演となった。

最終楽章は白夜か夢か、レム睡眠か、躁状態か、とにかくネアカでどんちゃん騒ぎだ。
ここではハーディングもオケもフルスロットルで突っ走った。これぞ生演奏。
長嶋茂雄的な表現をさせてもらえば、「ズバッと」「スパーンと」決まった演奏だ。
コーダのクライマックスが案外あっさりと、煽ることなく終わったのは、実はハーディングの特徴だ。
この日だけではない、これまでの彼の演奏を聴いても、そういうことが往々にしてある。
ここにハーディングのイギリス人のイギリス人たるところが聴こえると言っていいだろう。
そう、彼は純然たる英国紳士なのだ。実はシャイで派手好きではないのだ。
そこが日本的に言えば奥ゆかしい、そう感じるのだ。

今回のハーディング指揮によるマーラーの「夜の歌」。驚くべき明快にして明確な演奏であった。
しかしながら、何度かキーワードのように書いたが、不思議なほどに色彩感は抑えられていた。
これほど多彩に書かれたスコアであるがゆえに、色彩感は元々は豊かなものであるはずだ。
にもかかわらず、意外なほどに抑えられた色彩感。とにかくそれが不思議だった。
しかし、この演奏をすべて聴き終えたとき、その答えがわかったような気がする。
夜にも色々な表情がある。それはいつの時代、どの場所においてもいえることだろう。
しかしそれらに共通することは一つだけある、当たり前のことであるが、「夜は暗い」のだ。
色々な表情があったとしても、色彩でいえば「暗い」のだ。あるのは濃淡なのだ。
今回の演奏では、抑えられた色彩感で、そんな当たり前のことを表現していたような気がする。
そんな、ある意味コペルニクス的な発想を起想させるような演奏であったと思う。

ハーディングというのはとにかく才人である。これほど才能にあふれた指揮者も珍しい。
理性的なスコアの読み、そのテクニック、見ている限りであるが、人間性も優れているのだろう。
指揮者として必要なものをすべて兼ね備えているのではないか、とすら思ってしまうほどだ。
しかし、才人ゆえに、彼の演奏は時として理性的になりすぎる嫌いがある。
そういう時の演奏も充分素晴らしいのだが、どこかで頭でっかちな、食い足りなさを感じることもある。
今回の「夜の歌」は、どちらかと言えば、理性に走り気味になった演奏であったかもしれない。
しかし、この難曲を前にした場合、少しばかり理性的に走るくらいがちょうどいいバランスだったと思う。
ハーディングの理性的なアプローチ。そして彼の要求に必死にくらいついていくオーケストラ。
この双方が見事なまでに高い次元で結実したのが今回の演奏会だった。

今回もハーディングの素晴らしい指揮にはすっかり魅了された。
なによりも、今年9月の指揮者陣の新体制以降のオケの好調っぷりがうれしい。
次回のハーディングの新日本フィルへの客演予定は来年5、6月のブラームス・チクルス。
今からその日が楽しみで仕方がない。

2013年11月12日 マサゴロウ

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2013年11月03日

新日本フィルハーモニー交響楽団 「新・クラシックへの扉(第34回)」(11/1/2013):その2


新日本フィルハーモニー交響楽団 「新・クラシックへの扉(第34回)」

1.ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 op.23 (チャイコフスキー)
2.交響曲第6番 ロ短調 「悲愴」 op.74 (チャイコフスキー)

指揮:手塚幸紀
ピアノ:田村響

2013年11月1日
すみだトリフォニーホール

その1はこちら


さて、俺が普段行くことのない名曲コンサート。新日本フィルの「新・クラシックへの扉」の初日である。
金曜午後2時の名曲コンサート、というサブタイトルが付けらているだけに、平日午後の公演である。
前々より人気のあるシリーズとは聞いていたが、なるほど、客席は9割を超える勢いの盛況であった。
例えば主婦の人であれば、平日午後の方が出やすいこともあろうし、老後の楽しみ的なお年寄りにも、
こういった日時の方が良かったりするのだろう。おかげで客席の平均年齢は相当高かったが…。

この日は録音が行われると、あらかじめロビーに掲示されていたが、
そのせいか、客席に行ってみると、ピアノの調律師がステージ上で熱心に調律の最中であった。

さて、いよいよ開演である。この日はオール・チャイコフスキー・プロ。1曲目はピアノ協奏曲第1番。
ステージ上にこの日のソリストである田村響が登場する。ポッチャリ体系、短髪の金髪、メガネ。
風貌としては、なにやら突拍子もない感じがプンプンするが、実際の演奏はどうだろうか。
そしてソリストから下がること数歩、手塚幸紀さんがゆったりとした足取りで登場した。
ゆったりと指揮台にのぼり、しばしの沈黙の後、手塚氏ならではの柔らかいキューがホルンに向かう。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番と言えば、誰もが知る超有名曲。
勇壮なホルンの序奏に導かれ、大河のごとく流れるオーケストラにピアノの和音が絡んでゆく。
まさしく出だし千両。この出だしだけでこの曲の有名度が決まっているといっても過言ではない。

手塚氏の柔らかいキューに導かれたこの序奏。聴こえてきた瞬間、その響きの美しさに心奪われた。
なんたるしなやかにして柔らかい響き。力みのないふくよかなその音は、美しい残響を残す。
まさに恍惚たる瞬間。トリフォニーホールの空間が素晴らしく美しい響きで満たされていく。
俺はムジークフェラインでウィーンフィルを聴いたことはない、それ以前にウィーンフィル自体ない。
それでも、この時トリフォニーホールを満たしていた新日本フィルの響きはウィーンに負けてない、
間違いなく世界に通用する響きであったと確信したい。

極上の響きに身を委ねていれば、ともすれば冗長になりがちな、長大な第1楽章はあっという間だ。
第2楽章はまさにメルヘンの世界。最初のフルートを始め、いろいろな楽器にソロが登場するこの楽章。
各奏者も実に見事なソロを聴かせていたのが嬉しかった。録音されている関係もあったかもしれないが、
何よりも、新日本フィルの恩人、手塚氏に対する敬意の表れだったような気がしてならない。
そう、この極上の響きを作り上げている要因の一つが、オケの手塚氏に対する敬意であると思うのだ。
各トップの奏者はもちろん、後方の奏者まで、手塚氏に真摯な眼差しを送り、演奏する。
これはなかなか見れる光景ではない。

そして第3楽章。これはさすがに曲調が曲調だけに、勇壮で激しい演奏とはなったが、
それでもしっかりと地に足をつけ、煽ることも叫ぶこともない、曲にすべてを語らせる演奏。
意外にも、随所に演奏上の「仕掛け」を施した演奏ではあったが、一貫性のある解釈、
全てが長い経験に基づく、全体としてみれば何の仕掛けもしていないような、自然なものであった。

あまりにも見事なピアノ協奏曲第1番。あまりにも見事な手塚氏の指揮ぶりばかりに気を取られ、
本来主役であるべき田村響のピアノは完全に耳中の外となってしまった。
というか、彼の演奏はあまりにも印象の薄いもので、印象に残ったのは金髪頭のみである。
最近の若手日本人ピアニストを聴くと、ほとんどのケースで思うのだが、とにかく音が抜けない。
揃いも揃ってベターッと弾く。これは日本のメソッドの限界なのではないだろうか。
田村響の場合は、しばしば打鍵が安定せず、浅い打鍵になったところに押さえつけるから、
響きは汚くなり、フレーズのつながりもギクシャクとしたものになる。
そしてぺダリングの甘さがそれらを助長し、演奏は不安定極まりないものとなる。
曲の解釈、というか表現上も何がしたいのやらさっぱり伝わってこず。っていうか主張がない。
特別な個性を出せとはいうつもりはないが、きわめて優等生的な演奏で面白味はゼロ。
この日だけかもしれないが、少なくとも俺の耳には感動、それ以前にいい演奏と感じることはできなかった。
金髪頭は単なるハッタリか。若毛…いや、若気の至りか。どうせなら演奏で若気の至りを聴かせてほしい。

さて、後半は本日のメインプロ、「悲愴」である。
結論から言って、意外なほど克明な名演であったと言えるだろう。
各楽器間のバランスは丁寧に整えられ、楽譜に書かれた音を過不足なく鳴らしていく。
重心は前半に比べ、はるかに低く置かれてはいたが、だからと言って重苦しくはならない。
全体を漂うのは、手塚氏ならでの、しなやかで、柔らかな響きなのである。
その彼の真骨頂ともいえたのは第2楽章。5拍子の変則ワルツだろう。
律儀にも5拍子を5つに振っていたが、音楽はしなやかに流れ、気品すら漂っていた。
欲を言えば両端楽章にはより厳しさが欲しいところだったし、第3楽章では鋭さが欲しかった。
しかしながら、これほどの克明さとしなやかさを得た演奏を前には、高望みという物だろう。

チャイコフスキーの音楽というのは、基本的にケレン味たっぷりに書かれたものである。
たとえばベートーヴェンと比べれば、内容が薄いだの、精神性が低いだのと言われる。
確かにそうなのだろう。交響曲であれば5番を比べればよくわかる、といえばわかる。
楽譜も劇的効果を狙った部分が多数見受けられ、ケレン味たっぷりに書かれている。

この日の手塚氏のチャイコフスキーは。実に楽譜に忠実な演奏だったと思う。
ケレン味たっぷりな楽譜を、過不足なく、忠実に、はみ出すことなく鳴らしていった演奏。
しかし、不思議なことに、聴こえてきた演奏はケレン味のない、純音楽的なものであった。
ケレン味たっぷりの音楽をケレン味たっぷりに聴かせる名演は往々にしてある。
カラヤンのチャイコフスキーが素晴らしいのはその典型例であるだろう。
しかし、ケレン味たっぷりの音楽を、ケレン味のない演奏で聴かせる演奏は数少ない。
ましてや、名演として聴かせる演奏は少ない。
そんな数少ない名演が、この日トリフォニーホールに響き渡ったと言えるだろう。

今回の手塚氏による新日本フィルの演奏会も、心に残る素晴らしいものとなった。
滋味深く、果たして心の奥が温もりに満ちていくような演奏会であった。
手塚氏の指揮が素晴らしかったのはもちろんであるが、オケの献身的な演奏も素晴らしかった。
ひょっとしたら、いま新日本フィルを最も美しく、そして自発的に鳴らすことのできる指揮者は、
ハーディングでも、メッツマッハーでもなく、手塚幸紀その人なのかもしれない。
今後も手塚氏の定期的な客演。願わくば定期公演への復帰を心から願いたいところである。

2013年11月3日 マサゴロウ

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2013年11月02日

新日本フィルハーモニー交響楽団 「新・クラシックへの扉(第34回)」(11/1/2013):その1


新日本フィルハーモニー交響楽団 「新・クラシックへの扉(第34回)」

1.ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 op.23 (チャイコフスキー)
2.交響曲第6番 ロ短調 「悲愴」 op.74 (チャイコフスキー)

指揮:手塚幸紀
ピアノ:田村響

2013年11月1日
すみだトリフォニーホール


俺は基本的にこの手の名曲コンサートにはまず行かない。
別に名曲が嫌いなわけでもなく、むしろ家ではこの手の名曲ばかり聴いている。
とはいえ、やはりそのオーケストラの看板は定期演奏会であると思っているし。
演奏する側も、もちろんプロの仕事ゆえにそんなことは無いだろうが、
定期公演と、この手の名曲コンサートでは気合の入り方も違うのでは、と思っている節もある。
しかし今回は別だ。この公演のために休みを取り、この日を心待ちにこの数日を過ごした。
なぜなら、この日の指揮者は手塚幸紀さんだったからだ。

俺が新日本フィルの定期会員になったのは、俺がまだ小学校高学年のころ。21年前のことだ。
会場は上野の東京文化会館。定期公演は同一プログラムをオーチャードホールと1回ずつ行っていた。
ちょうどその頃、1990年代前半から半ばにかけての頃、手塚氏は定期公演に定期的に客演していた。
1972年の新日本フィル創設時の指揮者団の一人という関係からの定期的な客演だったのだろう。
今資料を見てみれば、ショスタコーヴィチの4番など、なかなか挑戦的なプログラムを組んでいたのだが、
俺の中には強い印象としては残っていなかった。むしろチェルカスキーなどの共演者の記憶の方が強い。
その端正な見た目、端正な指揮ぶりが、小澤征爾かぶれだった当時の俺には理解できなかったのだ。

1990年代に最後に手塚氏の指揮の演奏会を聴いたのは、1998年の神奈川フィルとのサンサーンス。
以来10年以上、彼の演奏会に行くことはなかった。というか、目立った在京オケへの客演もなく、
俺としてもあまり気にかけないまま10年以上が経過していたという方が正確である。
そしてその間に、彼に病魔が襲っていたなんて、全く知る由もなかったのである。
2001年に喉頭癌を患い、一時的に声を失い、療養のため指揮活動を停止していたというのだ。

指揮活動を再開されて、今や結構な年月が経っているらしいのだが、
恥ずかしながら手塚氏の病気、復帰の話を知ったのは2011年のことであった。
そしてその直後、東京文化会館で新日本フィルを指揮するという情報を耳にし、上野に足を運んだ。
2012年3月22日、都民芸術フェスティバルでの「田園」をメインとする演奏会だった。

実に14年ぶりに見た手塚氏は、病気の影響もあるのか、さらに痩せたように見えたし、
90年代の記憶のようなスマートなイメージよりも、どうしても老け込んだ印象が強かった。
冷静に考えればそうだ。秋山和慶や飯守泰次郎、小林研一郎らと同年代なのだから。
指揮ぶりも以前に比べて動きは抑えられ、オケ全体をしっかりと見据えたような指揮ぶりだった。
とはいえ、90年代当時に見たあのしなやかな腕や指先の動き、それらは健在であった。

そして肝心の演奏であるが。それは素晴らしい「田園」だった。
その端正にしてしなやかな音楽づくりは、その指揮ぶり同様に変わらないものであったが、
俺が90年代に聴いたその演奏に比べ、透明度と柔らかさは増したように感じた。
強烈な個性もないし、派手さもない、しかし気付けば音楽と一緒に呼吸をしている。
圧倒的な感動というよりは、その滋味深さと温かさがいつまでも心に残る。そんな演奏会だった。

もう一度手塚氏の指揮による演奏を聴きたい。俺は強くそう思った。
そう思いながらも、情報の少なさから、なかなかその機会に恵まれることがなかった。
そして今回の新日本フィル、「新・クラシックへの扉」の出演を知り、再び足を運べることとなったのだ。

その2へ続く…

2013年11月2日 マサゴロウ



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