名曲名盤100選
2013年11月29日
名曲名盤100選(その5:ベートーヴェンの交響曲)
指揮:ヨーゼフ・カイルベルト
ハンブルク国立管弦楽団(1960年代前半)
「ジャジャジャジャーン」。運命である。
ベートーヴェンのというよりも、クラシック音楽の中で最も有名な曲の1曲だろう。
この「ジャジャジャジャーン」を、運命が扉を叩く音だとベートーヴェン本人が言ったか言わずか、
日本では「運命」なんて表題が付くが、海外ではこのような表題はつかないのはご存じの通り。
確かにこの「ジャジャジャジャーン」のリズム動機が、この曲全体を構成しているということを考えれば、
この「ジャジャジャジャーン」が、この曲を運命づけたわけで、確かにこの曲は「運命」であると言える。
この曲全編を支配する「ジャジャジャジャーン」のリズム動機。
ひとつのリズム動機で曲を構成していくという手法は、ベートーヴェンにはよくある手法であり、
交響曲であれば第1番の段階で、すでにその基礎は出来上がっている。
そしてその作曲手法が見事な形で体現されたのがこの第5番なのである。
ベートーヴェンの作曲技法の、ひとつの集大成。好き嫌いは別として傑作と呼ぶにふさわしいだろう。
これほどの傑作を前にすれば、どういった演奏であってもそれなりの感動を得ることができる。
たとえば、俺はカラヤンのベートーヴェンなんて、と毛嫌いしているわけだが、
この第5番に関しては、1940年代にウィーンフィルと録音したものを愛聴していたりしている。
つまり、曲がここまでしっかりと作られていれば、演奏は問わないと言っても過言ではないのだ。
ファーストチョイスには何が良いか?と尋ねらたらば、音質が悪くなければなんでも、と答えるだろう。
ただし、個人的には「苦悩から歓喜へ」というドラマ性を無理やり持たせたような演奏は好まない。
そういう演奏は得てして音質は悪い、こう書けば誰の演奏かはお察しいただけるだろう。
今回俺が取り上げたいのはカイルベルトの指揮によるスタジオ録音だ。
カイルベルトと言えば、カラヤンと同い年でありながらも、60歳の若さにして亡くなった指揮者である。
カラヤンのようなスター街道は行かず、歌劇場叩き上げの、まさにカペルマイスターと言うべき存在だ。
彼の演奏はまさしく「ドイツ的」である。一点も揺るがすことのない重厚な響き。遅めのインテンポ。
ドイツ人による、ドイツ音楽を聴く楽しみが彼の指揮による演奏からは聴くことができる。
となれば、俺が最も好むタイプの指揮者がカイルベルトその人であり、実際にそうなのであるが、
彼の演奏はドイツ的な演奏の、いい部分とは反面として好ましくない部分もふんだんに持ち合わせている。
その一つの特徴として、演奏が箱庭的というか、四角四面になりすぎる嫌いがあるということだ。
特にカイルベルトの場合は、フレーズをザクザクと切っていくような演奏が特徴の一つであるが、
それ故に性急さが表面的になることも多く、たとえば同じベートーヴェンなら「田園」などは不出来だ。
彼がバイロイトで振ったワーグナーなどは極上の素晴らしさで、まさに職人仕事の結晶だとは思うが、
それでもよく聴けば、マタチッチなどと比較すれば、フレーズの息の長さは圧倒的に足りていない。
しかし、誤解して欲しくないのは、彼が効果を狙った短距離奏法的な演奏をしているというわけではなく、
スコアの見通しはスッキリと、構成を見通したものであるというのは強調したい。
そしてそれが劇場叩き上げの、カペルマイスターとしての職人気質なのだ。
となれば、このベートーヴェンの第5番のように、リズム動機を積み上げていくような作品においては、
カイルベルトの演奏スタイルは抜群の相性を発揮する。
愚直なまでに、そっけないほどにリズム動機を積み上げていき、圧倒的なクライマックスを作り上げる。
第1楽章の出だし。大きなタメと共にリズム動機が示された瞬間。その響きの虜となるだろう。
なんたる重厚にして血潮のたぎるような響きだろうか。洗練なんて言葉は微塵も存在しない。
ハンブルク国立管弦楽団のローカル色の強い、垢抜けない響きもそれを助長する。
原味あふれる弦の響き。野性味あふれる金管の咆哮。ズシりと影を与えるティンパニ。
どこをとってもカイルベルトの。ドイツ人によるドイツ音楽の素晴らしさにあふれている。
その反面、第2楽章の木管の幽玄にして静謐な響きも素晴らしい。
苦悩から歓喜へという、取ってつけたようなドラマはここには存在しない。あるのは目の前にある楽譜のみ。
ベートーヴェンが残した楽譜を信じ、真っ直ぐに演奏したベートーヴェンをここに聴くことができる。
演奏者はその音のドラマに埋没していくことはない。目の前の楽譜を信じていればそれは不要だ。
本当の音のドラマというのは、顔を真っ赤にして音楽とともに泣いたり笑ったりすることではないのだ。
もっと自然に、書かれていることをそのままに演奏すれば、自然と生まれてくるものなのだ。
そんな当たり前のようなことが、このカイルベルトの第5番からは聴こえる。
これほどの名曲であり。数多くの名盤がひしめくこのベートーヴェンの第5交響曲であるが、
その中でも、最も真っ直ぐな演奏のひとつがこのカイルベルト指揮による演奏であると俺は思う。
もちろんもっと他に美しい演奏もあるだろうし、ドラマチックな演奏もあるだろう。
しかし、俺はこのカイルベルト盤を、この曲の決定盤のひとつとして強力に推薦したい。
2013年11月29日 マサゴロウ
2013年10月29日
名曲名盤100選(その4:ベートーヴェンの交響曲)
交響曲第4番変ロ長調 作品60
指揮:朝比奈隆
新日本フィルハーモニー交響楽団(1989年ライヴ)
全9曲のベートーヴェンの交響曲の中で1番好きな曲は?と尋ねられたら、俺はこの4番を選ぶ。
超有名曲の3番と5番に挟まれてしまっているので、どうしても地味なイメージが付きまとってしまうが、
オーケストレーション上の編成の小ささを微塵も感じさせない曲のスケール感の大きさ、
ベートーヴェンならではの革新性、歌心。これらはひょっとしたら前後の交響曲を越えているかもしれない。
この曲の有名盤と言えばまず思い浮かぶのがクライバーやムラヴィンスキーのライヴ盤だろう。
これら2盤はどちらも快速テンポの中に、しなやかさと天性のきらめきを加味したクライバー、
独特の厳しさと当時のレニングラード・フィルの鋼のアンサンブルが光るムラヴィンスキー、
どちらも名盤の名に恥じない盤だとは思うが、どちらも指揮者の個性が光りすぎており、
ベートーヴェンの残したスコアの本質が再現されているとは考えづらい。
俺が今回紹介したいのは、朝比奈隆指揮の新日本フィル、1989年のライヴ録音だ。
これは朝比奈の80歳を記念したベートーヴェン・チクルスを収録したもので、
当時絶好調の新日本フィルと、心身ともに充実した時期の朝比奈の遺した最高傑作のひとつだ。
1番から9番まで、いづれも恰幅のいい、重心の低い、ドイツのオケ顔負けのベートーヴェンが聴ける。
個人的な意見ではあるが、特に1番と4番の素晴らしさは、どちらも決定盤と言ってもいい出来だ。
この1番と4番は、1950年代に朝比奈がベルリン・フィルに客演した際に指揮しており、
また、当時の他の海外オーケストラの客演でも多く指揮している曲である。
後のインタビューで朝比奈は、1番だの4番というのは演奏効果が上がりづらく、
当時は常任が有名な番号を振って、客演にはこういう効果の上がらない曲が回される、と語っていたが、
そんな武者修行の成果か、ひそやかに朝比奈はこの4番を得意にしていたのではないか、などと思う。
さて、演奏に耳を傾けてみよう。
ピチカートに導かれて神秘的に始まるこの4番の第1楽章。
テンポは大変遅く、クライバーのそれと比べれば倍も遅いかに感じられてしまう。
止まりそうな中にも確実な推進性があり、オーケストラがしっかりと聴き合っているのがわかる。
ひとつひとつの音が、ひとつひとつの強弱が見事なまでに丁寧に、そして克明に演奏される。
ヴァイオリンのボウイングなどは、聴いているだけで手に取るようにわかるようだ。
そしてそのボウイングの必然性が極めて高く、その音符の意味を全て語っているようだ。
そして主部。その直前のフォルティシモによるオケの爆発の圧倒的な力感は、
現代楽器により、大編成のオーケストラでベートーヴェンを演奏する素晴らしさを教えてくれる。
こういう「音」を聴いてしまうと、古楽器演奏というものがいかにある意味において無意味かを教えてくれる。
演奏は基本的に遅めのインテンポで、恰幅よく進められる。
強弱の処理は極めて的確で、ベートーヴェンが随所に残したスフォルツァンドは過不足なく表現される。
インテンポと言っても、自然なアゴーキグが随所に聴かれ、歌にも不足しない。
第1、3、4楽章のような「速い」楽章はもちろんのこと、第2楽章のアダージョにおいてもそれは変わらない。
極限まで遅められたテンポ。オーケストラはもたれることなく目一杯歌い込む。
各フレーズのつながりには細心の注意が払われ、低弦のピチカートひとつにまで意味を与えていく。
全ての音符が必然性を語るので、テンポが遅くなろうとも、推進力は失われることがないのだ。
数ある朝比奈のベートーヴェンの名演の中でも、屈指の名演がこの第2楽章かもしれない。
基本的なスタイルは維持したまま後半の2楽章も演奏される。特筆すべきは第4楽章だろう。
そのスローテンポ、そのスフォルツァンドの悪魔的な響き、その格調の高さ、
どれをとってもこの曲のあるべき姿を表しているといっても過言ではない、と思うのは俺だけだろうか。
そもそもクライバーにしてもムラヴィンスキーにしてもテンポが速すぎ、演奏不能な部分も出てくる。
その演奏不能さもベートーヴェンの革新性という解釈もあろうが、しっかりと演奏できるテンポで、
ひとつひとつの音符をしっかりと鳴らした演奏でここまでのものが出来上がれば、
そのような解釈というものは下衆の勘繰りとすら思えてしまうのだ。
朝比奈隆と言えば、複数回にわたりベートーヴェンの交響曲全集を録音しており、
その数ではカラヤンを上回り、世界一の回数と言われている。
そんな朝比奈のベートーヴェンの中でも、この新日本フィルとの第4番は、彼の最高傑作だと思う。
そして同時に、この曲の決定盤の名に恥じないものであると、俺は確信している。
2013年10月29日 マサゴロウ
2013年10月09日
名曲名盤100選(その3:ベートーヴェンの交響曲)
交響曲第3番変ホ長調 作品55 「英雄」
指揮:オットー・クレンペラー
ケルン放送交響楽団(1954年ライヴ)
実は俺はこの「英雄交響曲」が好きではない。というか、曲の良さがイマイチわからない。
しかしこれほどの名曲と呼ばれる作品、そして俺が最も愛するベートーヴェンの作品である。
それゆえ相当数の実演、録音を聴いてきたが、演奏の素晴らしさを感じることがあっても、
曲の素晴らしさはどうしても理解できないでいるのだ。
最初の変ホ長調の和音2発はいいとして、その後の2ndヴァイオリンとヴィオラの8分音符の刻み、
そこから俺はベートーヴェンの神経質にして、とっつきにくい部分を全開に感じてしまうのだ。
そしてそのベートーヴェンの神経質な部分は、この曲全体に漂っているように感じられて仕方ない。
確かに第1楽章後半、トランペットがヒロイックにテーマを奏でる前の見事なオーケストレーション。
第2楽章の葬送行進曲、第4楽章の変奏曲と、素晴らしい部分を発見することはできる。
しかし、それを理由に、俺の中でこの曲を名曲と位置付けることは俺には難しい。
そんなわけで、この曲自体にはさほどの魅力を感じていない俺であるがために、
CDで聴くのも、曲を聴くというよりは、演奏者の、演奏の素晴らしさを聴くために聴く。
例えば、朝比奈隆/新日本フィル(これ以上ないほどのオケの充実した響き)、
フルトヴェングラー/ウィーンフィルの1944年(フルトヴェングラー臭満点)、
レーグナー/読売日響(第2楽章の、あたかもR.シュトラウスを聴くような個性的演奏)、
といった感じの、指揮者の個性が強く出た演奏を好んで聴いていた。
今回紹介するのは、クレンペラー/ケルン放送響の1954年ライヴだ。
俺が数年前に初めてこの盤を聴いたとき、やっとこの曲の理想的な演奏に巡り合えたと思った。
指揮者の個性と、曲の個性がぴったりと融合してしまったかのような演奏である。
聴いていると、どこまでが指揮者の個性で、どこまでが曲の個性なのかわからなくなってくる。
それほどにクレンペラー、ケルン放送響、この両者がこの曲に入れ込んで演奏しているのだ。
「入魂の熱演」。この演奏ほどこの言葉がふさわしい演奏もない。オケ、指揮者共に火の玉のようだ。
クレンペラーのおっかない顔が思い浮かぶような、全体にピンと張りつめる緊張感。
しかし奏者たちはその緊張感の中に自由に魂を開放しているかのような、理想的な緊張感なのだ。
そしてそこから生まれるうねりのような見事なアンサンブル。まさにオケが1つの楽器となっているようだ。
クレンペラーはそんな中、時折唸り声を上げながら、オケ一緒に、火の玉のように統率していく。
しかし、クレンペラーならではの見通しの良さ。ドライともいえるスコアの読みは変わることない。
速めのテンポで流動的に、うねるように曲は進むわけだが、要所でクレンペラーは冷たい目で睨む。
フルトヴェングラーのように、曲のフォルムを崩すということは決してないのである。
そうなれば、もはやこの演奏は無敵である。ひたすらに全4楽章。一気呵成に聴かせるだけである。
聴き手はひたすらに、この演奏の素晴らしさに身を委ねるだけで良い。
今も実際に、この盤を聴きながら、この文章を書いているわけだが、やはり興奮が襲ってくる。
時折キーボードを打つ手が止まってしまうほどの興奮だ。なるほど、文章も感情的になるというものだ。
「英雄交響曲」嫌いなこの俺をここまで興奮させ、感動させるのはこのクレンペラー盤のみである。
間違いなくこの盤を、この曲の決定盤として、心の底から推薦したい。
ちなみに、上記に紹介してあるMembran盤は非所持であり、
実際に俺が聴いているものと音質に違いがあるかもしれないので、あしからず。
2013年10月03日
名曲名盤100選(その2:ベートーヴェンの交響曲)
交響曲第2番ニ長調 作品36
指揮:ベーラ・ドラホシュ
ニコラウス・エステルハージ・シンフォニア
ベートーヴェンの交響曲について語られるとき、よく言われるのが、
奇数番号は男性的で、偶数番号は女性的であるということ。
個人的にはそういうレッテルが第4番を間違った方向へ向かわせているとも思うが、
それ以外に関しては、「さもありなん」だと思う。
特に今回取り上げる第2番、第8番あたりは、女性的と表現していいかは別として、
しなやかさと開放感に満ち、ベートーヴェンにありがちな息苦しさは無い。
この第2番の交響曲が書かれた当時、ベートーヴェンは肉体的、精神的にボロボロ。
俗にいう鬱の最高潮状態で、自殺をしようと遺書を書いたのもこのころのことだ。
そんな状態で書かれたにもかかわらず、この曲は明るく、美しい。
ハイドンのよき生徒として、古典的な形式をしっかりと踏襲した第1番に比べ、
この第2番はベートーヴェンの才気が一気に開花したともいえる作品。
書かれた楽譜の随所に、ベートーヴェンの才気が「刺激」として登場する。
当然基本的な形式にはしっかりと則って書かれているが、それよりも心のままに書いている。
そのためか、全4楽章を通して見たときに、第2楽章が冗長に過ぎる嫌いはあるが、
ハイリゲンシュタットの森の木漏れ日を全身に浴びるようなこの美しき第2楽章を聴けば、
そんなことは全くの問題ではないことに気付くだろう。
演奏は、ドラホシュ指揮のニコラウス・エステルハージ・シンフォニアを筆頭に挙げたい。
このCDがリリースされた当時、新ベーレンライター版という新しい版の楽譜が発刊され、
いろいろな指揮者、オケにより、新ベーレンライター版によるCDが発売された時期である。
小編成のオーケストラにより、スタイリッシュに、刺激的に演奏されるベートーヴェン、
それが主流となりつつある始まりの頃であった。
このドラホシュ盤も、小編成のオーケストラを使い、スタイリッシュに演奏される。
朝比奈隆の洗礼を受けた俺としては、ベートーヴェンの初期番号においても、
弦楽器は16型の大編成。ともすれば管楽器まで倍に増やす。
といった、堂々たる、恰幅のいいベートーヴェンを好む。
本来ならば、このドラホシュ盤のような演奏は全く受け付けない。
しかし、第2番に関しては、このドラホシュ盤が最高峰なのだ。
第1楽章冒頭の明るい、抜けのいい響き。それに続く木管楽器のふくよかな響き。
それだけでこの演奏の真価がわかるというもの。後は最後まで響きに身を委ねるだけだ。
随所にベートーヴェンが仕込んだ、刺激という才気、これも過不足なく表現される。
しかも、それは決してこけおどしでもなく、自然な響きの中に自然に登場するのだ。
力みなく、すっきりと、抜けのいい響き。しかしそこにコクやまろやかさは失われない。
これほどこの第2番の曲想にぴったりとはまり込んでしまった演奏も珍しい。
このドラホシュ盤を、この曲の決定盤として、強力に推薦したい。
余談だが、このドラホシュ/ニコラウス・エステルハージ・シンフォニアのコンビで、
ベートーヴェンの全交響曲が録音されているが、どうもこの第2番以外はいただけない。
突然変異的にこの第2番が優れているような気がしないでもないのだ。
しかし、これほどの素晴らしい演奏を前に、そんなことを考えるのは野暮というものだ。
2013年09月26日
名曲名盤100選(その1:ベートーヴェンの交響曲)
ベートーヴェンの第1番と言えば、俺の中では長らく2盤が双璧としてあった。
ひとつは、シューリヒト指揮、フランス国立放送交響楽団の1965年ライヴ、
そしてもう1つは、朝比奈隆指揮、新日本フィルハーモニー交響楽団の1988年ライヴだ。
枯淡と豪胆を合わせ持った神業のごとくシューリヒト晩年の名演。
恰幅の良さと、意外にも歌にあふれる朝比奈全盛期の名演。
これらの次点として、バーンスタイン/VPO盤。
この3種を持っていれば、この曲に関しては事足りる、と思っていた。
このワーズワース盤に出会うまでは。
このワーズワース盤に出会ったとき、まさに目から鱗、いや、耳から鱗が落ちた。
指揮者の個性は特に強くなく、オーケストラも非常にニュートラルな音色である。
しかしそこから湧き上がる普遍性が、この曲との見事な調和を聴かせているのだ。
どこもかしこも「普通」なのである。テンポもバランスも、とにかく「普通」。
過不足なくスコアに書かれた楽譜を、自然なテンポ感で演奏する。
そんな、簡単そうに見えて案外できないようなことを実現してしまった演奏である。
たとえばベートーヴェンがこの曲の随所に仕込んだスフォルツァンド。
これは昨今の実験的、時代考証的な演奏で聴かれるのは「刺激」でしかなく、
そこに何か音楽的な意味を感じ取ることは難しい。
しかし、この演奏で処理された、実に「普通」なスフォルツァンドを聴けば、
その「普通」がいかに音楽的か、ということを感じ取ることができる。
ベートーヴェンが残した楽譜を普通に演奏すれば、いかに素晴らしいかということだ。
カンのいい方ならすでにお気づきだろうが、このCDはある種のキワモノである。
「THE ROYAL PHILHARMONIC COLLECTION」。そう、あの1枚315円のCDである。
家電量販店や駅、CDショップなら入り口付近のワゴンで売られていたあのシリーズだ。
指揮者のワーズワースも、格安CDレーベル、NAXOSの初期を支えた何でも屋指揮者だ。
要するに、クラシック音楽のマーケットの中でも、最も「安い」オケと、指揮者の演奏である。
激安盤だからと言って、これを聴かない理由にはならない。
安物買いの銭失いには成り得ない、本当の大穴盤がここにある。
このCDの立ち位置的にあえて「大穴」という言葉を使ってはいるが、
ベートーヴェンの交響曲第1番の名盤、いや、決定盤として、自信を持って推薦したい。